時に、西暦1951年、北九州の小倉。
岡谷源蔵(嵐寛寿郎)親分の“岡源組”は、戦後のどさくさに成り上がった橋本傳次郎親分(金子信雄)の“橋傳組”との果てしなき抗争を繰り広げていた。
この流血の事態を憂えた、民主主義の伝道者(?)たるアメリカ合衆国進駐軍は、地元警察署長(藤岡琢也)通じて両陣営に平和のメッセージを託すのだった。
「OH! アナタガタ、ケンカスルイッケマセェ〜〜ン。勝負ハ民主的ニ、べぇ〜〜すぼ〜〜るデ、ツケナサァ〜〜イ
拒否スレバ全員逮捕シテ、沖縄デ強制労働デェ〜〜ス」
かくして、岡源組、橋傳組。名誉と組の興亡を賭けた、ビーンボール・デット・ボールは当たり前、邪魔する審判なぎ倒し、乱闘大好き・喧嘩上等のヤクザ野球がはじまったのだ。